どんよりとした灰色が空に広がり、重たそうな雲から雨が降り、窓ガラスにあたっては伝う。いつもの鳥の囀りも、木々が揺れ合う音もなく、ただ、雨音だけが聞こえる。すべての音を遮断するそれのおかげで、静寂よりも静寂らしい空間が、雨の日は訪れる。むっとするような湿気を含んだ空気や微かに匂う雨と土のにおい。
雨の日は思考が低下する、という統計が存在するらしいが、では、雨の日は眠くなる、ということはないのだろうか、とシンクは考える。頭の一部に重く沈殿する眠気が、ここぞとばかりに思考を揺るがせてくるのは、彼の場合、決まって雨の日なのだ。
シンクは資料室で一人、調べ物をしていた。そこには雨音の他に、彼が時折捲るページの音しかない。人の気配もない。だからこそ、安心して溜息をつくことも出来るし、欠伸をすることも出来る。
前者を連発する理由は、彼はここのところ、睡眠不足に陥っていたからだ。不眠症、というわけではないのかもしれない。その証拠に、眠りに落ちることは出来るのだ。だが問題なのはその後で、決まった一つの夢を見て、飛び起きてしまう。それは悪夢としか言いようのない、あの忌々しい被験者と火山の記憶。火口に突き落とされたところで目が覚めて、汗をかいて呼吸が荒くなった自分に気がつく。そうしてまた眠りにつけば、同じことの繰り返しが待っているのだ。
これはわりと周期的に起きる出来事で、夢を見始めてから一週間はそれが続く。初めの頃はそれでも何とか眠りにつこうと試みたものだが、最近では努力することを放棄していた。睡眠は大事ではあるが、あの悪夢を見ることの精神的な苦痛、見た後の精神の消耗を考えると、かえって体に悪いと思ったのだ。そして唯一、彼が考え出した対処法は、収まるまで眠らなければいいと、そういう能率的で自虐的な方法だった。
今回もその対処法をとっていたのだが、悪いことに、その周期が雨の日にあたってしまった。雨の日は無条件で眠たくなる。雨で遮断された空気が停滞し、時間が止まったように感じるからかもしれないし、単に薄暗いからという理由かもしれないし、その原因は彼自身はっきりしないが、とにかく雨の日は眠くなるのだ。
ある程度ならば我慢できる。特に、遠征や戦闘など、体を動かし神経を使う仕事の最中などは眠気など一切吹き飛んでいる。しかし、こうやって静かな資料室で調べ物となると、そうもいかない。
少しずつ、眠気が増していく。はっと気がつくと、ページを捲る手が止まっている。欠伸をかみ殺しながら何とか手を動かすものの、また気がつくと止まっている。その繰り返しだ。
眠ってはいけない。眠ったらまた、あの悪夢が繰り返される。
すでに資料の内容など頭にはまったく入ってこなかったが、それでも唯一の防衛策とプライドを持って、彼はページを捲り続けた。
しかし、調べ物から二十分ほどが経った頃、彼の手は完全に止まった。頬杖をつく左手が頭を支えられず、ずるずると体勢を崩し、彼はとうとう机に突っ伏した。左腕がだらりと机の前の方に伸ばされ、右手は本の上。腕を枕代わりにし、顔を少しだけ横に向けて、彼は眠りに落ちた。
肺が焼けるような熱い空気を吸い込む。ああ、まただ、と夢の中でシンクは思う。
まわりには自分と同じ顔をした人間が何人も立っている。
火口の前で、死への順番待ちをしている。
怯えた顔をして、疲れた顔をして、生気のない顔を、して。
自分もまた同じような風貌なのだろう。
複数の虚ろな目が訴える。死にたくないと、痛いのは嫌だと。
うるさいなぁ、そんなこと言っても無駄じゃないか。
ボクらは失敗作なんだよ。
生まれた意味もなければ、生きる意味もないんだよ。
勝手に生み出されて、勝手に消されるんだ。
一人が、火口へと突き落とされる。無言で、無音だった。
ただ、異物を飲み込んだマグマが一瞬激しく揺らぎ、ごぷり、と音を立てた。
それをきっかけにして、一人、また一人と突き落とされていく。
自分の番になる。腕を掴まれて火口に立たされる。
下を見ると、赤々としたマグマが燃え滾る。
熱い。熱い。熱い。
生まれた意味もなければ、生きる意味もない。
勝手に生み出されて、勝手に消される。
それが定めなのだと。運命なのだと。
それでも怖いと思うのは
悲しいと思うのは
いけないことなのだろうか。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
怖い――
「大丈夫」
背中から加わるはずの力は、柔らかな声になって耳に届いた。ほぼ同時に、誰かに頭を撫でられる感触。
「大丈夫・・・・・・大丈夫・・・・・・」
その声は言い聞かせるように何度も繰り返され、撫でられる感覚も途切れることはない。
優しい声色と温もりが繰り返されるにつれて不思議と悪夢は薄れていった。
熱い火口の映像がぐにゃりと歪み、一瞬のうちに消えうせる。
恐怖と悲しみが混ざり合った痛いほどの想いが少しずつ楽になっていく。
「大丈夫」
その声が聞こえる度に。心が軽くなっていく。
ああ、眠れる。シンクはそう思った。
暖かいような、安心するような感覚がじわりと体中に滲む。
ふわりと、甘い香りが鼻腔を擽った記憶を最後に、彼の意識は完全に落ちた。
「アリエッタ」
唐突に大きな声が聞こえ、シンクはびくりと体を震わせ、目を覚ました。眠っていたのはほんの何秒だったのか、それとも何時間も経ったのか。あまりにも深く眠っていたためシンクにはわからなかった。深い眠りから急に呼び覚まされたせいでなかなか覚醒しない頭を片手で抑えながら体を起こす。真っ先に目に入ったのは傍らに座る桃色の髪で、その後にさらに後ろ、ちょうど出入り口の辺りに立つラルゴが見えた。
「起き、ちゃった?」
アリエッタはシンクの顔を覗き込みながら言った。
「アンタ・・・・・・」
いつのまに、と言おうとしたが寝起き独特の掠れた声が出てしまい、思わず口を噤む。一方アリエッタはいつものような眉を下げた表情ではなく、小さく微笑むような表情を作っていた。
先ほど、夢の中で聞いた声を思い出す。あれは彼女のものだったのだろうか。そして、あの頭を撫でる手も。
「すまん。起こしてしまったか」
ラルゴがシンクを見ながら言う。未だはっきりとしない思考を回転させようとしながら彼は「いや・・・」とまた掠れた声を出した。ラルゴは視線をアリエッタへと移し、「次の第一師団と第三師団の合同遠征の件について、少し確認したいことがあるのだが、一緒に来てくれ」と告げた。アリエッタはこくりと頷いて椅子から立ち上がる。まだ子供といえど、彼女も第三師団師団長なのだ、こうやって誰かに呼び出されることもある。
だが、シンクはこの時、立ち上がるアリエッタを見ながら、何故か深い喪失感を感じていた。彼自身、理由の分からない感情だったが、気づいた時には歩き出そうとしたアリエッタの手首を掴んでいた。彼女は驚いて振り返る。鮮やかな瞳が自分を映し出した時、この行動に対する言い訳をしようか、それともこの手を離してしまおうかとも考えたが、どちらも実行することは出来なかった。ただ黙って、アリエッタを見る。
彼女は大きな目を数度瞬かせると、ふわりと微笑み、自分の手首を掴むシンクの手をとり、ぎゅっと握り締めた。
「すぐに戻ってくる、です」
まるで諭すようなその台詞。黙っているシンクにもう一度微笑みかけ、アリエッタは踵を返した。二人分の足音が遠ざかり、やがてドアの向こうに消えた。資料室は再び雨音の静寂に包まれる。
「すぐに戻ってくる、か」
シンクは独り呟き、自分の手を眺めた。先ほどの彼女の温もりがまだ残っているような気がして、ぎゅっと握り締める。
「子供じゃないんだから・・・・・・」
そう言って笑う。しかし、悪い気分ではなかった。久しぶりに眠れたからか、それとも――
外は雨。空に広がる灰色、重たい雲。無条件に眠たくなる日。
再びやって来た眠気に、シンクはもう逆らおうとはしなかった。再び腕に頭を乗せて、目を閉じる。もうあの夢は見ない、と思った。
――大丈夫
あの声がある限り。この手に温もりがある限り。彼女が、いる限り。
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2006.8.14.ありさか
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