雨の匂いが鼻をつく。湿った空気がゆるりと頬をなで、灰色の空から落ちてくる自然のシャワーにアリエッタは小さな笑みを浮かべた。彼女は雨の日が嫌いではない。母親代わりのライガクイーンと過ごした楽しい思い出が蘇ってくるからだ。木の葉から伝い落ちる雨のしずく、蛙の鳴き声、巣から見える森が潤う様子。ライガクイーンに寄り添って、それらをじっと見て、聞いたものだ。それに、雨が上がった後の澄んだ空気が、彼女は好きだった。
だから雨の日になると嬉しくなる。心が落ち着く。そして、無性に誰かの傍にいたくなるのだ。


彼女はダアトの中を歩き回り、シンクの姿を探していた。今朝、朝食の席で見かけたきり彼と会っていない。自室を訪れてもみたが、彼は留守だった。今日中に片付けなければならない仕事も特になく、ならば彼を探そうと思い立ったのだ。


雨の日のダアトは心なしか普段よりも静かで、人の気配が薄くなっていた。アリエッタはシンクが行きそうなところを順に回り、幾度目かに訪れた心当たりの場所で彼の姿を見つけた。


そこは静寂が保たれた資料室で、彼はそこで一人、机に突っ伏していた。そっと近づいてみると、彼は眠っているようだった。伸ばした腕を枕にし、もう片方の手は開かれたままの資料の上にある。資料を読んでいる間に寝てしまったのだろう。しかし、仮面で隠されているためその表情は見ることは出来ないが、気持ちよく寝ている、というのではなさそうだ。そう思った矢先、彼の口から小さな声が漏れた。歯を食いしばり、苦痛な様子が手に取るように分かる。


悪い夢でも見ているのだろうか。小さな声でシンク、と呼んでみたが起きる気配はない。そういえば、彼は度々、眠れない日が続くことがあるしいとラルゴに聞いたことがあった。今がその時期だとしたら折角眠れているのに起こしてしまうのはどうだろうか。だが、このまま苦しませておくのも可哀相だ。


迷った末、アリエッタはそっと手を伸ばし、彼の頭を撫でた。同時に、「大丈夫」と囁く。


「・・・・・・大丈夫・・・・・・大丈夫」


言い聞かせるように、何度も繰り返す。夢の中の彼が少しでも楽になればと、そう思ったのだ。




大丈夫。私がそばにいるから。
大丈夫。安心して。
大丈夫。私が、守るから。


だから、苦しまないで。




囁きながら頭を撫で続けていると、やがて彼から苦痛の表情が消えた。ふっと穏やかになり、安らかな寝息を立て始めたところを見ると、先ほどよりも深い眠りに入ったようだ。アリエッタはそっと手を引くと、彼と同じように片腕を伸ばし、そこに頭を乗せる。ほんの少し横を向いている彼と向かい合うような形になった。


彼は、何を夢に見ていたのだろう。単に悪い夢を見てしまったのか、それとも思い出したくないような、過去の夢、か。よく考えると、アリエッタはシンクのことを何も知らない。導師守護役を降ろされて第三師団師団長に任命されてから、同じ六神将として仕事を共にし、いつからか仕事以外でも接することが多くなった。アリエッタは、彼といると安らぐ、と思っている。まるでライガクイーンの傍らで眠りにつくような安心感もある。彼もまた、そう感じていて欲しいと思う。自分といることで、安らかに、そして穏やかであればいいと思う。


そのためなら自分は、いつだって彼のそばにいるだろう。


ドアが開く音がした。アリエッタは反射的に体を起こす。見えたのはラルゴで、彼が大声をだしてシンクを起こしてしまう前に静かにしてというジェスチャーをしようと慌てたが、間に合わなかった。彼の「アリエッタ」という声は静かな資料室に響き渡り、その結果、眠っていたシンクの体がびくりと跳ねた。アリエッタは思わず彼の顔を覗き込み、「起き、ちゃった?」と言えば、額に手を当てながら「アンタ・・・・・・」とシンクが掠れた声で言う。まだ頭がはっきりとしていないようだ。


「すまん。起こしてしまったか」


ラルゴの言葉に彼は「いや・・・・・・」と返したが、眠たげに仮面の下の目を擦る仕草が何だか可愛らしくて、アリエッタは緩む口元を隠すようにぎゅっとぬいぐるみを抱いた。彼の新しい一面を見れたような気がした。


「次の第一師団と第三師団の合同遠征の件について、少し確認したいことがあるのだが、一緒に来てくれ」


もう少し彼と一緒にいたかったが、これは仕事だ。私情を挟んではいけない。
アリエッタはこくりと頷くと、椅子から降りて立ち上がった。そして歩き出したラルゴの後を追おうとした――が、手首を掴まれてくいと後ろに引かれ、立ち止まる。振り返ってみると、シンクが彼女の手首を掴んでいた。


彼は何も言わず、ただ黙っていた。相変わらず表情は仮面に下に隠されている。だが、アリエッタは彼がまるで小さな子供のような表情で自分に縋っていると感じた。いかないで、そばにいて、と。


彼がとてもいとおしく思えた。


アリエッタは微笑み、自由な手で手首を掴む彼の手をとり、両手で優しく包み込んだ。


「すぐに戻ってくる、です」


黙っている彼にもう一度微笑みかけ、その手を離し、ラルゴの後を追いかけた。
資料室を出て、ラルゴの斜め後ろ辺りを歩いていると、唐突に彼が「眠れたみたいだな」と言った。アリエッタは一瞬、何のことが分からなかったが、すぐにシンクのことを思い出す。


「ここ数日、また眠れなかったらしい・・・いや、眠れない、というのとは少し違うようだが」


ラルゴの言葉に、シンクはきっと眠りたくなかったのだ、とアリエッタは思った。あの苦しげで辛そうな表情に関係しているのかもしれない。
そっと目を伏せて立ち止まってしまったアリエッタを振り返り、ラルゴは笑いかけた。


「お前のおかげで眠れたんじゃないのか?」


もっと自信を持て、と彼は言った。そうして、あいつをもっと穏やかにしてやってくれ、と。


「ああ冷たくされたんじゃ、部下も可哀相だ。だから、頼むぞ・・・・・・きっと、お前にしか出来ない」
「アリエッタにしか・・・・・・?」


自分が感じる安らぎを、彼も感じればいい。一緒にいて落ち着けると思ってくれればいい。そうして彼の心が穏やかになってくれたとしたら、きっと、それは素敵なことだ。



アリエッタは微笑んだ。早く仕事を終わらせて、彼の元に戻ろう。すぐに戻ると言ったのだから。




大丈夫。私がそばにいるから。
大丈夫。安心して。
大丈夫。私が、守るから。


だから、苦しまないで――




外は雨。空に広がる灰色、重たい雲。無条件に誰かのそばにいたくなる日。



きっと、彼のそばに。













end







よく考えると、ダアトにいる頃はアリエッタの中で特にイオン様への思いが強い頃。
そんな頃にシンクにこんな思い抱かないような・・・と、書いた後に気がついて泣きました。
一種のパラレルとして読んでいただければ幸いです・・・。





2006.8.14.ありさか