「シンクっ。シーンークっ」


歌うようにアリエッタの口から紡がれたその名前の主は、廊下の真ん中で足を止めて小さく振り返った。仮面を被っていても彼が仏頂面だということがわかるが、それでもアリエッタがそばに来るまで歩みを止めて待っているところを見ると、決して機嫌が悪いわけではないようだ。パタパタと彼の傍までやってきた彼女は一度大きく息を吸うと、その勢いのまま「見て!」と言いながらずいと手をシンクの目の前へと差し出した。


彼女の小さな手のひらに乗っていたのは、古びた鍵だった。


何なんだと思いながらもシンクはその鍵を観察する。素材は真鍮のようだがかなり古いものらしく美しい光沢はすっかりと失われている。ここまで見ると、何の変哲もない、ただアリエッタが物置かどこかから引っ張り出してきただけに過ぎない古びた鍵だった。しかし、特筆すべきはその素材である――ここ、ダアトには真鍮で出来た鍵穴など、どこにもないのだ。


「ね、不思議、でしょう?」


にこにことアリエッタが言う。彼女もこの鍵の不自然さに気がついていたらしい。


「どこで見つけてきたわけ?」
「向こうで拾った、です」
「拾った?」


彼女の言葉にシンクは眉を潜める。このダアトには多くの巡礼者が訪れる。もしかしたらこの鍵は巡礼者の落し物かもしれないと思ったのだ。楽しげな笑みを浮かべている彼女は、この鍵について勝手に空想を膨らませているに違いないが、残念ながらこれは彼女がこのまま持っているべきものではない。


「・・・・・・落し物として、係りの奴に届けるよ、これ」
「だ、駄目です・・・!」


笑みが一瞬にして慌てた表情へと変化する。


「これは落し物じゃないの! ダアトの鍵、です!」
「どうしてそう言い切れるのさ?」
「アリエッタの勘、です」


勘って。
思わず呆れたようにアリエッタを見下ろすが、彼女は自身あり気に胸を張っている。


「だからね、シンク。一緒に、同じ鍵穴のドアを探す、です」


どうしたものか、とシンクは考える。この鍵を落とした巡礼者がいるとして、その人物が鍵を失くして困ろうが彼にはまったく関係はないが(落とす方が悪いのだとシンクは思う)、シンクとアリエッタが鍵を拾ったにも関わらず落し物として届けなかったことが万が一ばれてしまった場合、言及されるのはどういうわけかシンクのみなのだと彼は経験で知っていた。そのため面倒事・厄介事の芽は早めに摘んでおくべきなのだ。
だがしかし、「駄目、ですか?」と言いつつしょんぼりと眉をハの字に下げるアリエッタを見ていると、「わかったよ」と言いたくなってしまうから不思議だ。この時も、彼は思わず「わかったよ、探すよ」と言ってしまってから、なんて自分は弱いのだと溜息をつくこととなった。


こうしてアリエッタとシンクの捜索は始まったのだが、一口に探すと言っても、ダアトは広い。しらみつぶしに探すには広すぎるのだ。しかも、手分けして探そうというシンクの提案は即座に却下された。あくまでも「一緒に」が原則のようだ。


「アンタさ、こういうことしてて時間の無駄だと思わないわけ?」
「思わない、もん」
「どうしてさ。訓練したり、仕事したりする方がよっぽど有意義な時間だと思うけど」


きょろきょろと辺りを見回しながら歩くアリエッタの一歩後ろを着いて行きながらシンクが言う。忙しなく動く少女の頭ではひっきりなしに鮮やかなピンク色が揺れている。


「・・・・・・アリエッタにとっては」


ふいに立ち止まったかと思うと、アリエッタはくるりと振り返り、微笑んで言った。


「アリエッタにとっては、シンクと過ごす時間が、一番、有意義、です」


その言葉を聞いてぽかんとしてアリエッタを凝視するシンクを余所に、彼女は再び前を向くと何事もなかったかのように歩き出した。


――ボクと過ごす時間が有意義、だって?


少しずつ遠ざかって行くアリエッタの後姿を眺めながら、シンクは不思議な気持ちだった。どういうつもりで彼女はそんな風に言うのだろう。どうして自分といて有意義だなどと言うのだろう。こんな自分といて何が楽しいのだろう。どうして――


「あっ・・・シンクっ・・・シンク!」


アリエッタの大きな声がシンクの思考を中断させた。気がつくと彼女は随分と先へ行ってしまっていて、彼女は何やら興奮して激しく手招きをしている。シンクは慌てて彼女の元へ駆け寄った。


「ここ・・・!」


アリエッタの目の前にあるドアに目をやると、確かに鍵穴が真鍮で出来ていた。シンクはぐるりと辺りを見回す――こんなところに、こんなドアなんてあったっけ?


「開けてみる、です」


真鍮の鍵がゆっくりと鍵穴にはまる。ゆっくりと回していくと、カチャリという音と共に、確かに錠が外れた手ごたえがあった。思わず顔を見合わせて、それからアリエッタがドアノブに手をかけた。


ギィという、まるで何年も開かれたことのなかったような錆びた音を立てながらドアが開いた。すると中から眩いばかりの光りが漏れ、二人は咄嗟に手をかざして目を庇う。


しまった、罠だったか?


しかしそう思ったのも束の間、光りはすぐに収まり、改めて目の前を見ると広い野原というありえるはずのない景色が広がっていた。


しばし呆然とした後、シンクはふと後ろを振り返った。ダアトの廊下であるはずのそこには、ただ同じような景色が広がっているだけだった。


「なんで・・・・・・」
「わぁ・・・! すごいです、すごいですシンク!」


警戒するシンクを余所にアリエッタを目を輝かせて言い、シンクが制止の言葉をかける前に目の前に広がる野原を駆け回り始めた。これが幻惑の術などの効果で、周りに彼らを狙う敵がいたらどうするのかと彼は焦ったが、殺気も、また彼ら以外の気配も感じられなかった。


どういうことなのだろう、これは。


「シンクー! シンクもこっちに来るです!」
「ちょ・・・・・・敵の罠だったらどうするのさ!」


呑気に駆け回るアリエッタに追いつきながらシンクが怒鳴る。すると彼女はまたにっこりと微笑んだ。


「シンクがいるから、大丈夫、です」


ああ。どうして彼女はいつも、手放しで自分を信用するのだろうか。


「シンク、あっちに綺麗なお花があるです」


手を引かれた。小さな手から感じる温もりが心にじわりと染みた。


アリエッタに手を引かれていったシンクは、普段ならば絶対しないことをした。花で王冠を作った。草笛を吹いた。かけっこをした。二人で寝転んで空を見上げた。心のどこかではまだこの空間を怪しんでいたが、それよりも彼女の笑顔が勝った。


ゆっくりと雲が流れて行く様子を眺めながら、シンクは息を吐いた。
こんな平和な時は知らない。無条件に寄せられる信頼も知らない。あの手のひらの温もりも。こんな感情も。


微かな寝息が聞こえてきた。遊び疲れたのだろうか。心地良い日差しに眠気を誘われたのだろうか。

ああ。この時が永遠に続けばいい、とシンクは思った。
こうしてずっと彼女のそばにいられればいい。そうしたら、きっと――





「おい、起きろよ」


些か不機嫌な声が頭上から降ってくると同時に、シンクの意識がふっと浮上する。眠ってしまったのか、と思いながら重い瞼をこじ開けると、目の前には見慣れた赤毛の青年が立っていた。


「・・・アッシュ?」


まだぼんやりとする頭で辺りを見回すと、そこはやはり見慣れた、ダアトの廊下だった。彼らがくぐったあのドアもない。ふと重みと温もりを感じて横を見ると、アリエッタがシンクに寄りかかって寝息を立てていた。


「ったく、こんなところで何してんだ。もうとっくに会議の時間なんだぞ?」


わかってんのか、とアッシュは苛立たしげに言う。おそらく、時間になっても会議室に現れないシンクとアリエッタを探す役目を彼が仰せつかってきたのだろうと察し、シンクは「悪かったよ」と素直に詫びた。その彼の素直さが意外だったのか、アッシュは訝しげな目で見返してきた。シンクはその視線に構わず、傍らで眠るアリエッタの肩を揺さぶる。


「アリエッタ、起きなよ」
「ん・・・・・・」


小さく声を漏らして身じろぎをし、ゆっくりと開けたその目はまだ夢心地のようだった。彼女は目の前のアッシュを見て、次に廊下を見回し、そして最後にシンクを見た。


「あれ・・・・・・ここ・・・・・・?」


夢、だったの、かな。


ぽつりと呟かれた言葉は何故かシンクの心をひどく軋ませた。だが、あれは夢というにはあまりにもリアルで。


「・・・・・・アリエッタ、鍵は?」
「かぎ・・・・・・」


アリエッタがはっとして自らの手を見てみると、そこにはあの古びた鍵がしっかりと収まっていた。


「夢じゃない・・・んだ」


思わずシンクが呟く。あのドアはない。ここは見慣れたダアトの廊下。けれど、鍵はしっかりと存在している。


「おい! 時間だっつってんだろ。いくぞ!」


訳のわからないやり取りをする二人に痺れを切らしたアッシュが荒々しく言い、彼はそのまま大股に歩き始めてしまう。そうだ、会議だったんだ、とシンクはアリエッタを立たせ慌ててその後を追う。アッシュが機嫌を損ねるのはどうでもいいが、リグレット達を怒らせるのは賢明ではないというシンクの判断に基づく行動である。

足早に廊下を歩いている時、小走りについてきていたアリエッタが小さな声で「シンク」と呼んだ。視線だけをそちらへ動かして「何」と返事をすると、彼女はにっこりと微笑んだ。


「楽しかった、ね」


楽しかった。そのたった一言がシンクの心に染み渡る。無意識に、そうだね、と言葉を返していた。


平穏な時だった。ありえないほどの、平和な空間だった。望んでも望んでも手に入らないものが、あそこにはあった。


「・・・・・・また、行けるかな」


幻の世界。夢の世界。しかしあのドアはもうない。


「行けるです、きっと。アリエッタと、シンクが一緒なら」


ピンクの髪を揺らした彼女が、ふわりと微笑みながら言う。その手には真鍮の鍵がしっかりと握られていた。


いつかまたキミと、あのドアの向こうへ











end








斎彩様より頂きました、Thanks1000hit企画第七弾でした。
シンアリでキーワードは「古びた鍵」というリクエストをいただいておりました。
復帰後一作目ということもありとても難産でした(笑)
尻切れではないかという感じが否めませんが、足りない点は皆様の想像で補っていただければと思います(ずるい)
いつにもまして未熟な作品で申し訳ありませんが少しでも気に入っていただければ幸いです。


リクエスト、ご拝読、共にありがとうございました。また、執筆が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。



2.28 ありさか