夜というのは独特の匂いだとディストは思っている。具体的にどのようなと形容できるわけではないが、落ち着く、と言うのが一番適した言葉ではないだろうか。日が落ちていくにつれて夜の匂いが濃厚になっていく。それと同時に、煮詰まっていた研究やレポートが少しずつ進展していくのだから、驚きだ。自分の研究は夜に発展している、と断言出来るといってもきっと、過言ではないだろう。


そういうわけで、彼は昔から夜になると活動を始める、所謂「夜型」で通してきているのだから、必然的にまわりとの関わりは薄くなっていく。故郷で研究を続けていた頃は元より、このダアトで働くようになってからもそれは変わらず、この巨大な組織の中で彼が気軽に話しが出来る人間は、いない。仕事の都合で彼と同じオラクル騎士団の団長クラスの輩と度々言葉を交わす程度だ。彼は、そのことを別に寂しいとは思っていない。むしろ気楽だと考えている。第三者の介入によって研究の時間が削られることもないし、優秀な頭脳をくだらないことに使わなくて済む。自分の目的は楽しかった「あの頃」と取り戻すことであり、「あの人」を再びこの世に蘇らせることであるのだから。


しかし最近、彼の穏やかな夜をかき乱す侵入者が現れた。彼女はちょうど夕食が終わった頃、小さな拳で部屋のドアをノックしてくる。その後、鍵を閉めていなければディストの返答の有無にも関わらず勝手に入ってくるし(ノックの意味をなさないではないか、とディストは常々思っている)、鍵を閉めていれば彼が開けるまでノックを連続して続ける。それは決して大きな音ではないが、途切れることなく鳴り続けるそれを無視することは困難だ。結局は根負けしてドアを開けてしまうのが常だ。「何の用ですか」と不機嫌に言ってやれば、彼女は桃色の目を細めて微笑む。いつもの不安げな表情ではなく、ふわり、という感じで、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめて。


あの日、彼女はノックもそこそこにドアを開けて部屋に入ってきた。予想外の客人に戸惑うディストを余所に、彼女はいつもの表情で彼の横を通り過ぎると、部屋の面積の半分をしめている研究・実験用の機械の前に立った。嫌な予感がしたディストが「ちょっと」と声をかける前に、彼女はぬいぐるみを持った手を振り上げ、そのまま精密な機械に向けて振り下ろした。がん、と鈍い音が響く。一瞬、何が起きたのか理解できずにいたディストだが、すぐに我に返ると尚も機械に手を上げようとする彼女の手を掴んだ。


「何を・・・!」
「こんなの、いらない」


震える声。同じくらい、掴んだ手も震えていた。


「それはあなたが決めることではないでしょう!」
「いらない、の」


小さな少女は泣きそうな、しかし強い光りを宿した瞳で彼を見上げた。


「ディストを縛り付ける、こんなもの、いらない」


え、と思わず呟く。間の抜けた声が静かな夜に落ちていく。彼女は掴まれた手を振り払うこともせず、ただ、じっと彼を見上げていた。


縛り付ける、とは、何だろう。彼女の細い手首の感触を確かめながらディストはぼんやりと考える。彼女は何故この機械が、研究が、自分を縛り付けていると思ったのだろう。彼が研究に没頭するのは自らの目標を込めた執着であり、向こうに縛り付けられている気はまったくない。
それなのに、心臓が微かに跳ねたのは、何故なのだろうか。

彼女は自分の手首を掴んでいた手を反対の手で握り、動揺して一切の動きを止めてしまったディストに抱きついた。小さなぬくもりを感じる。不思議なことに、彼はその時、ひどく泣きたいと感じた。


今宵も、彼女はやって来た。


桃色の瞳が彼を映し出す。彼は何も言わない。彼女も何も言わない。ドアの前に立つ彼のそばをすり抜けて部屋に入り、彼女はいつものようにソファに腰掛けた。あの日以来、彼女は機械に手を出すことはなかったが、その代わりソファに腰掛けて彼をただじっと見つめて、終いにはうたた寝をして(彼女は夜型ではないらしい)、帰っていく。彼女の目的も意図もディストにはさっぱりわからなかったが、彼女に見られている時、ふと研究から思考を離して考える。――自分を縛り付けているのだろうか、これは、と。執着ではなく、向こうからの束縛なのだろうか、これは、と。過去に縋りつくあまり、捕まってしまったのだろうか、逆に。


レポートを書く手を止めて振り返ると、広いソファの上で彼女が小さな体を更に縮ませるように丸くなり、眠っていた。またか、とディストは眉間に皺を寄せる。こつり、と靴音を響かせても彼女は起きない。近づいても気配を察しない。これでよく第三師団長が務まるなと思う。彼女が寝ていても充分にスペースがあるソファに腰掛け、その寝顔を見下ろす。安心しきった表情で眠る彼女はとてもオラクル兵には見えず、年齢のわりに幼い顔つきには血生臭い戦場よりも美しい花畑が似合うような気がした。そのような思考を持つ自分に、彼は驚く。珍しいを通り越して、おかしい。


自分はもっと閉鎖的で、孤独な人間だったはずだ。人との関わりなど求めぬ、ただ研究に没頭するだけの。
どうしてこうなってしまったのだろうか。絆されてしまったのだろうか、彼女に。


もし、と思った。そのせいで、自分の志が揺らいでしまったとしたら。


そう思うと、怖くなった。執着を失くした自分がどうなるのか、見当もつかない。ただ、きっと今のままではいられないのだろうと、漠然と、考えた。途方もない、想像するだけの、先の見えない、未来。


思考が麻痺する。そっと、指先を眠る彼女の白い首へと持っていく。「もしも」を仮定して考えるよりも今、この少女の首を絞めることの方が現実的のように思えた。自分のひんやりとした指先に彼女の熱が移っていく。
違和を感じたのか、「う・・・」と小さく声をあげて彼女が身じろぎをした。


「でぃす、と・・・・・・」


すうっと微かな呼吸の音と共に聞こえた、微かな寝言。何もかもどうでもよくなるような、そんな気持ちが広がった。
頬にかかった髪をそっと避けてやる、そんな動作をするのもきっと、夜だからなのだろう。


思わず、彼女の額に口付けをしたのも、きっと。


顔を近づけた瞬間、彼女からふわりと、夜の匂いがした。






















end











伊月様より頂きました、Thanks1000hit企画第一弾でした。
リクエストは「ディスアリ」で「シリアス」「夜」というキーワードでしたが、
果たしてご期待に添えましたでしょうか。
いつもの如くよく掴めない内容となってしまいましたが、
これが私のディスアリのイメージです。


また、少々私信となってしまいますが、
リクエストを頂いた際には嬉しいお言葉をかけて下さり、ありがとうございました。
ディスアリ布教中と言いつつも見て下さる方はいらっしゃるのだろうかと思っていたので
こうしてリクエストを頂けてとても嬉しかったです。
どうぞ今後とも、当サイトを宜しくお願い致します。


リクエスト、ご拝読、共にありがとうございました。





2006.8.26 ありさか