海のように深く穏やかな青が、真っ直ぐに自分を射抜く――最近、ジェイドはそんな抽象的な夢を見る。目覚めはさほど良い方ではないが、この夢を見た時の気分はそう悪くはない。むしろ、どこか心地良い。だがしかし、そう考えることは、頑丈に作り上げたはずの鉄壁に綻びが生じているということ。つまり、彼の心に何かが入り込んできているのだ。それが何なのかは、その夢を見始めた時点でわかっている。ただそれを認めたくはないだけで。
あなたに、触れたいんです
凛とした声色が、あの日から何度も頭の中で響く。まったく、最近の若い娘は何を考えているのやら、と一人で考えては苦笑する。そうやって軽い冗談として処理出来るなら、どんなに楽だっただろうか。冗談として処理しようとも、忘れようにも、得意の笑みで誤魔化そうにも、あの時の彼女の姿はジェイドの脳裏に濃く焼きつき、その言葉は深く心に刻み込まれて、薄れることはない。おまけに、その元凶とは毎日顔を合わせている。
彼も彼女も、あの日のことなどなかったかのように自然な振る舞いをし、再び話を持ち出すこともなかった。だが、明らかに以前とは違う、何かがあった。考えすぎではない。確かに、何かが変わっていた。
彼女のことが嫌いというわけではない。特別好きというわけでもない。しかし、自分の中に眠っているものを揺り動かすのは彼女だと、はっきりと理解していた。だからこそ近寄りたくないのかもしれない。
怖いのだろうか?――何が怖い?
自分のせいで、自分のまわりで、また、誰かがいなくなってしまうことが?
ズッと刃が肉に食い込む感触。目の前の魔物が絶命したのを見て、ジェイドは今が戦闘中だということに気がついた。いつからぼんやりとしていたのだろう。まわりの状況と自分に怪我がないのを見る限り、無意識に応戦していたらしい。染み付いた軍人の性に感謝すべきか、自失状態にあった自分を叱咤するべきか。
そんなことを思いながら、近くにいた魔物に槍を向ける。ある程度体力を削ってから後退し、譜術の詠唱を始めた、その僅か数秒後。すぐ近くに、殺気を感じた。
普段より集中力が欠けていたことは否めない。だからといって、軍人として、大佐という肩書きを持つ者として、易々と背後を取られてしまうなど、失態だ。
詠唱を中断して振り返ると、鋭い爪が振り上げられ、次の瞬間、下ろされた。僅かに後退したが、驚くほど体が重く、とても間に合わない。受身と取る暇すらなかった。
深い傷にならなければいいが、という考えが脳裏を過ぎった。
刹那、彼と魔物の間に何かが飛び込んできた。パッと、彼の目の前に見慣れた薄いブラウンが広がる。
そして生々しい、切り裂く音。庇われたと気がつくのにニ秒ほど時間を要した。
ジェイドは俊敏に動き、槍を突く。上手く急所に当たり、魔物はすぐに絶命した。しかし彼はそれすら確かめず(頭の片隅で、ああ、また軍人失格だ、と考えた)、彼の傍らで蹲っている少女を見た。
見たところ、左の肩から肘の辺りまでざっくりとやられているようだった。手で傷を押さえているが、指の隙間から赤い血が滴り落ちている。ポタポタと、地面を染めている。
くらり、と眩暈がした。
「ティ――」
「大佐」
呼びかけと共に手を差し伸べたが、彼女のはっきりとした声に阻まれ、中途半端に宙に留まった。
「これで、信じていただけましたか?」
怪我のことなど気にならないとでもいうように、彼女は言った。あまりにも場違いな質問で、それでいてあまりにも彼女らしい質問で、ジェイドは一瞬、言葉を失った。先日の彼女の姿がフラッシュバックする。自分に触れたいと言った彼女、理解したくないと言い放った彼女。そして今、捨て身で自分を庇った彼女。ただ、自分に信じて欲しいがために。
心臓が脈打つ。鉄壁の綻びが、また、広がったような感覚がした。
「私は・・・」
「ティア!」
呟くように紡がれた言葉は、怪我をしたティアを見つけて駆け寄ってきたルークの声によってかき消された。その後から続々と戦闘を終えた仲間たちが集まって来たせいで、ジェイドは再び言葉を発する機会を失った。
「すごい怪我だな・・・大丈夫か? 今、ナタリアに治療を・・・」
「平気よ。このくらい、自分で治せるから」
彼女は冷静な声でそう言い、差し伸ばされた手にも掴まらず気丈にも一人で立ち上がって見せた。ジェイドを庇って負傷したとは、一言も言わなかった。きっと、今後も言わないだろう。
仲間たちに促されて歩き始める寸前、彼女はジェイドの方を見て、微笑んだ。
目を細め、口元を僅かに緩ませて。
そうして、すぐにくるりと彼に背を向けた。
痛い。
彼女の背中を見つめながらジェイドは右手を額に当てた。ぎゅっと、誰かに鷲掴みにされたように心臓がひどく痛んだ。それは息苦しいほどに。深く吸い込んだ息を、長く細く吐く。キシキシと、故郷の街に積もる雪を踏んだ時のような鈍い音が、自身から発せられているようだった。
彼女の微笑みが頭から離れない。
十九歳も年の離れた少女が崩した鉄壁。もう誤魔化せないところまで来ている。知らないフリを出来ないところまで来ている。もっとも、彼女には最初から、自慢の微笑みも話術もそして脅しも、通じなかったのであるが。
激しく心が揺れているのに気がつき、ああ、と溜息をつく。彼女はもう、触れていたのだ。触れてしまっていたのだ。
長い間、バリアを張って守り続けていた、自分自身に。
あなたが、好きです。
彼女の声が耳元で、鮮明に蘇る。きっとあの時からもう、囚われていたのだ――彼女に。
負傷者が出たこともあり、その日は近くの街に寄って宿をとった。彼女の怪我は術で治癒出来るほど軽くはなく、全治するのに長く時間を要するほど深刻でもなかった。それゆえに、彼女は当初の予定を変更してしまうことを強く抗議したが、仲間の彼女を心配する気持ちが一致したのだ。
全員での食事の後、それぞれが部屋へと引き上げていく中で、ジェイドは一人外へと足を向けた。とはいえ、遠出をするつもりはない。中にいると小さなざわめきが耳につき、落ち着かないのだ。普段は気にならないのだが、神経が昂ぶるこんな夜は、ひどく鬱陶しく感じる。
冷たい空気が彼の全身を包んだ。扉から少し離れたところで立ち止まり、空を仰ぐ。漆黒の闇に転々と浮かぶ星が今日は眩しく思える。
宿に着いてからも、食事の時も、彼女はいつもの彼女で、ただ白い包帯に滲む赤が痛々しかった。なるべく彼女を視界に入れないように心がけながら、彼もまた、普段通りの自分を演じた。
鉄壁は綻びたが、それはごく一部だ。彼女のように故意にそこを見つけない限り、このままの自分を保っていられる自信があった。
だからこれからも、このままでいてやる。
誰にも触れさせない。
鉄壁もバリアも、また作り直せばいい。
だから――
キィ、と背後で扉が開く音がした。中から漏れた光が薄く延びて、二度目の音と共に細くなって消えた。誰かが近づいてくる気配と共に、かさっという足音が耳に届く。それが誰のものなのか、予想はすぐについたが、ジェイドは背を向けたまま黙っていた。
「・・・お一人で、何をなさっているんですか?」
静かな声が空気を震動させる。彼はそっと深呼吸をした。少しだけ冷静さを取り戻した気がした。
「別に。ただ、外の空気を吸いたかっただけですよ」
「偶然ですね。私もです」
それは明らかに嘘だと分かったが、彼は何も言わなかった。彼女が隣に立つ。僅かな距離。
「・・・怪我の調子は、如何です?」
「平気です」
「言い遅れましたが、すみませんでした。少しぼんやりしていたんですよ、あの時は」
わざと軽い調子で言う。それでこの話題を打ち切ってしまうつもりだった。
しかし、それに対して彼女は何も言わず、ただ小さな声で「大佐」と呼んだ。
微かな痛みが、胸に走った。
「大佐。こっちを向いて下さい」
静かだが有無を言わさない彼女の声色に負けて、ジェイドは横に立つ彼女を見下ろす。月明かりに照らされた彼女は不覚にも美しく、深い青の瞳に見つめられてぞくりとした。
「何です?」
笑みを浮かべようとして、失敗した。きっと奇妙な表情になってしまっただろう。
「・・・・・・私の質問に、まだ答えていただいていません」
適当な言葉が見つからず、ジェイドは押し黙った。その間も、青い瞳は彼を捕らえて離さない。じわじわと、すべてを侵食されるような感覚。もう何もかも遅いのだと告げているように。
そっと右手を伸ばして彼女に触れた。血が滲んだ包帯をなぞると、びくりと微かに体が震える。そのまま手を滑らせて首筋を撫でて、頬に添えた。
出来ることなら、終わってしまえばいいと思った。彼女が抱く想いも、自分の、このきゅっと切ないような、痛いような感覚も、すべて終わって、なくなってしまえばいいと思った。
しかしその反面、心臓の鼓動が彼女を求めて止まなかった。
――冷たい。
残る左手を彼女の背中にまわしながら、その唇の冷たさに彼は故郷の雪を思い出していた。
end
長くなってしまいました。メリハリのないお話でごめんなさい。
2006.8.10.ありさか
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